名画「左富士」


plate of kaguya park
有名な浮世絵師、広重さんのベストセラー。東海道53次の中の一枚 です。
江戸時代、東海道を江戸(東京)から上方(大阪)へと旅していき ますと、基本的に富士山は右手に見えつづけるのですが。これがなぜ か左手に・・。 なぜかと言うと、、。広重先生、スケッチのためにこの地をおとづ れたのですが、なんというか名前も売れて来て江戸の版元か ら送られた多額の版料を使って宿屋でどんちゃん騒ぎをやらかした。
そして、翌日、二日酔いになってしまったのですね。それで、出かけ に大事な筆を宿に忘れて来てしまった。しょうがないってんで、回れ右を して宿に戻ったのですが。
回れ右をしたのですから、その途中は左に富士が見えて・・・っての はうそです。^^;







plate of kaguya park
東海道のこのあたりは基本的に海岸沿いに旧東海道が通っていま す。
と単純に書いてしまうとむちゃくちゃ誤解がありそうです。海岸沿い でなかった時期もあったようですから。なんとなく、このあたりを東西に通ってい る道は、ほとんどがいずれかの時代に東海道だったんじゃな いかと思えたりします。最近の道ですら、バイパス、新道、旧道と 3本あったりするのです。
取りあえず、この話では江戸時代のころの東海道って事でそれなりに 解釈してください。私もよく分からないですし。
右の写真は、そのあたりの旧街道ですけど。完全に絵と同じ場所というわけ では無さそうです。完全に同じというあたりからは、それらしく富士山が見え ないので、近くの交差点から・・です。^^;
絵のように何も無かった時代って、既に想像不可能ですね。
とりあえず、道の左手に富士山が見えるでしょ?。それらしい松の木もありますし。
松の木の間に白い看板がチラっとのぞいているかと思いますが、そこに左富士の 説明が書いてあります。





plate of jinja
話を戻して、江戸側から進んだとして沼津の千本松原あたりから ず〜っと海ぞいに東海道は進みます。ところが吉原の宿だけは、かなり 内陸にあります。(原の宿も少し海から離れていますが)
なぜかと言うと・・。
吉原の宿も大昔は、海ぞいにあったのですね。 ところが何度かの高波(たとえば 延宝8年1680年の台風による 高波)で被害を受けて、それで、少し内陸に再建したのですな。
そんなわけで、元吉原(かつての吉原)から吉原宿にかけて、海岸 から離れる方向に東海道はぐぐ〜っとカ〜ブしている。それがまあ、 ほんのわずかですが、富士山が左手に見えると言う場所を作って しまったのです。
原の宿が、少し内陸にあるのも吉原と同様の理由のようです。
plate of kaguya park 現在、この名画の元になった場所には左富士神社という小さい社 と公園が儲けてあります。向かいの酒屋で「左富士」なるお酒も 売っています。

この少し先に源平の富士川(今の富士川は、はるかかなたです けど)の合戦の古戦場もありますが、それはまた別の機会・・ かな?。


松岡 和男様[email protected] に誤りを指摘していただき、修正しております。ありがとうございました。


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